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平安郷だより 11月号 (2025)

平安郷建設・奇蹟の軌跡

信徒の力が結集した大楠の立て曳き移植


 楠風なんぷう荘そうの名前の由来にもなっている、大きな楠の木は、二代教主様の時代、1960年代(昭和三十年代)の中頃に京都御苑の近くのお寺から譲り受け、春秋庵の入口付近に植えられました。当時の高さは3メートル、太さは大人ひと抱えだったそうです。
 一般的にクスノキは、全体に特異な芳香を持ち「臭し」がクスの語源になったとも言われています。材や根を水蒸気蒸留し、樟脳しょうのうとして防虫剤や鎮痛剤として用いられ、その防虫効果から家具や仏像などにも広く使われていました。このような理由から仁王門の仁王像のように門番的役割を果たしているものが多く、昔から神社や仏閣などの神聖な域で育つものは大切にされ、樹齢何百年もする大木も数多くあります。
 ここ平安郷でも明主様並びに二代教主様当時までは、広庭は田んぼでしたので春秋庵の入口に結界的役割として植えられたわけですが、その木が半世紀の月日を経て、高さ10メートル、太さ2.5メートルにまでに成長しました。
 そして、1999年(平成十一年)4月の平安郷造営起工祭直後、三代教主様より、平安郷は平安時代の野のイメージの庭園にしたいとのご構想があり、この大楠が周辺の視界を遮り、景色を分断するということで、新たに中門を設ける現在の位置に移植することとなりました。その工法は、明主様当時行われた聖地建設の技術を伝承する願いを込めて、伝統的な立て曳きたてひき(木を立てたまま人力で移動する)工法と決定されました。
 2004年(平成十六年)の3月14日、建設奉仕隊数十人が見守る中で根巻作業が行われましたが、推定100トンはあろうかと思われる根鉢の巨大さに全員息を飲みました。気を取り直して全員で引っ張りましたが、大楠はビクともしません。エレベーターのワイヤーよりも太いロープは切れ、電柱程の太さのコロは折れ、遂には、大楠を載せていた大きなソリも砕けてしまい作業は中止せざるを得なくなりました。
 しかし、誰ひとり諦める者はなく、春秋庵(大彌勒御尊像)に奉告参拝をし、大楠木竜神に正饌と生卵をお供えし、根鉢を80トン程度に小さくし、別日に改めて再チャレンジをしました。今度は大楠は順調に動き出し、春秋庵入口から中門まで約200メートルの距離を約一週間かけて、のべ800人の信徒の手で無事移植することが出来ました。
 この奉仕に参画した信徒の中には、いづのめ教団以外の信徒、海外研修生や在日ブラジル人信徒の奉仕団も含まれており、「和の働きの平安郷」に相応しい一大作業でした。この大楠は、あれから二十年を経た今日もなお、平安郷建設に真向かう私達の姿を中門から見守ってくれています。

明主様へご報告されたみなさまの声

【修養会】

  • 平安郷修養会に初めて参加させて頂きました。まず聖地を頂いていることに感謝致します。春秋庵では、中に入らせて頂いての参拝、本当に信仰の喜びを感じました。F・H(福井)
  • 有意義な日を過ごすことができました。どこを見ても美しく、どこから見る景色も素晴らしかったです。満喫することが出来ました。Y・K(福井)
  • 過去何度か平安郷にご参拝させて頂いていましたが、今回は素晴らしい体験をさせて頂きました。春秋庵では特別な感激・感銘を受けました。今回の体験をもとに、これから今まで以上に信仰と明主様の教えに従っていくよう努力してまいります。有難うございました。M・K(広島)

 
【宿泊奉仕】

  • 嬉しいのは、御奉仕の草取りができたことです(感謝の気持ちがかたちで表せた)。明主様が身近に感じすごーく嬉しい。素敵な庭苑散歩で心洗われ、すがすがしい時を過ごさせていただきました。M・M(埼玉)
  • 平成の時代に何回か奉仕、またみあとしのびてなど参加した時代から見ると色々な植物が植えられ楽しくもあり、嬉しくもあります。感謝です。S・H(埼玉)
  • 建物の素晴らしさも感じました。現在では職人の方々も少なくなり、日本の高い建設技術が失われて残念です。平安郷にはそれらの高い日本の技術が本当に良く残っていると感じました。明主様の美に対する調和と、日本美、技をよくここまで残してくださっていると感心しました。H・K(埼玉)
  • 十年以上、平安郷に来聖しておりませんでしたが、今回ご奉仕、参拝が許されましたこと、感動で、感謝いっぱいです。地上天国のひな型建設が進み、今私達に明主様から託されていることを、講義やお話から多くのお仲間のお許しを頂けますようご祈願致します。S・F(埼玉)

平安郷建設奉仕隊の募集

二泊三日の奉仕隊を募集いたします。庭木の手入れや木竹工芸、苔庭手入れなどです。一泊二日や日帰り奉仕をご希望の方もご相談ください。

    • 12月  19日  ~  21日

平安郷修養会の募集

一泊二日の平安郷修養会を行います。平安郷庭苑や建造物の学び、お茶を楽しみ、そして明主様とのご面会を通して神様中心の信仰をご一緒に学びましょう。

    • 12月12日~13日

※募集事項のお申込みは、各拠点から事務センターを通してお願いします。

コバちゃんのひとりごと

いさぎよく秋を紅葉(もみじ)のもえさかり たちまち入(い)る灰色の冬 明主様詠

 11月の上旬、京都の和菓子屋には、ウリ坊(猪の子ども)を模った「亥の子餅」が並びます。
 この風習は、旧暦の10月(亥の月)の最初の亥の日の亥の刻(21時~23時)に食し、無病息災のまじないとした中国の俗信に基き、平安時代に宮廷で行われたのが始まりと言われています。
 『源氏物語』の「葵の帖」には、正妻、葵の上の49日が済んでまもなく、源氏は紫の上と密かに結婚します。その新婚の夜に亥の子餅が出て来ます。「その夜のことです。たまたま10月初めの亥の日に当たっていましたので、亥の子の餅を、さし上げました。まだ喪中のことですから、おおげさにはしないで、姫君のほうにだけ、風流な檜破(ひわり)籠(ご)(檜の薄板の容器)などに餅を入れてさし上げたのです。」とあります。
 また、亥は陰陽五行説では水性に当たり、火災を逃れるという信仰があります。このため江戸時代には「亥の子火入れ」と言い、亥の月の亥の日を選び、囲炉裏(いろり)や炬燵(こたつ)を開いて、火鉢を出し始めた風習ができあがりました。茶の湯の世界でも、この日を炉開きの日とし、茶席菓子に「亥の子餅」を用います。上の茶屋でも11月上旬は「亥の子餅」が出されることがよくあります。「亥の子餅」で一服いただきながら、平安王朝時代に思いを馳せるのも一興ですね。
 因みに、令和7年の「亥の月の亥の日」は11月2日です。それが済むと11月7日は「立冬」ですので、いよいよ本格的な冬が訪れます。