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平安郷だより 4月号 (2025)

A3判→

平安郷建設と世界布教

大弥勒御尊像奉斎により 東光西照のお働き再び

 明主様は昭和二八年四月八日に初めて春秋庵へお泊りになられました。そして立教九十周年の今年四月八日は、庭苑が完成して二〇年、岡田茂吉記念館が竣工し一〇年を迎えます。平成の平安郷建設を振り返ると、平成六年六月六日の大弥勒御尊像奉斎式が出発となり、世界に向けて御神業が大きく進展しました。翌年の十一月にはブラジルのグァラピランガ聖地が竣工しました。さらにその翌年の平成八年十一月には、タイのサラブリ聖地が竣工しました。そして三代教主様の、「ブラジル、タイを太刀持ちのようにして平安郷建設が始まる」との宣言のもと、平成十一年四月八日に平安郷造営起工祭が執り行われ庭園建設が本格的に始まりました。
 令和の平安郷建設計画である殿堂建設と美術館建設も大弥勒御尊像の再奉斎が起点となりました。令和五年。五は「火」を顕し出発の年と言われます。この年の新年祭より、いづのめ教団は正式に大弥勒御尊像が聖地の御神体と位置付けられ、以後毎月七日を聖地平安郷の月次祭(四月・一〇月は春秋の大祭)として斎行することとなりました。「水」を顕し、拡がりを意味する令和六年の六月六日は、大弥勒御尊像奉斎三〇周年を迎えました。さらに「土」の働き、現界経綸を顕す令和七年を迎え、再び世界布教の進展の兆しが感じられます。
 今年三月一八日、平安郷においてトルコ人二名の特別拝受が許されました。さらにトルコでは十数名の入信希望者が拝受を待っています。明主様は、「仏教を救って、次にキリスト教を救わなければならないのです。(中略)それからマホメットと、この三大宗教です。それを霊的に救って、それから本当に人間が救われるというので、これが順序で、神様はそういうような順序でやられるわけです。ですから今度あっち(注・京都)に行ったのは、その第一歩というわけなのです。」(御教え集二一号)と御教え下さいました。トルコはイスラム圏の入口の最東端に位置し、首都アンカラから南へ約一三〇〇キロ(列車で約八時間)にはイスラム教の聖地エルサレムがあります。明主様は、「それからエルサレムです。あそこでおしまいです。ですから西へ西へと行くわけです。エルサレムに地上天国ができたときが、世界の地上天国のはじめになるのです。それからが世界が統一されるのです。」(御教え集一五号)、と、ご講話されています。今回の拝受は、東光西照の型と受け止め、令和の平安郷建設に私たちの奉仕の誠を捧げて参りたいと思います。

明主様へご報告されたみなさまの声

  • 久しぶりの平安郷奉仕参拝に行かせて頂き、天国の雛形に身を置かせて頂き、とても幸せな気分になりました。明主様がどんな想いで平安郷建設に邁進されてたのかと想いました。和の聖地と言われて、私たちの心も和に向かって相手を受け入れる心を培って行きたいと思います。ただただ 偉大な明主様に使って頂きたいと思いました。(T・I広島)
  • 初めての平安郷奉仕参拝を許されて参加させて頂きました。春秋庵の建築の素晴らしさに感動致しました。春は桜、秋は紅葉が最高に美しいでしょう。是非、又参拝が許されたいです。(T・S広島)
  • 平安郷月次祭の受け入れ奉仕に今月も参加を許されました。朝目覚めると、ふと世界中の人の事を祈らなければと思いました。思い返してみると、今まで自分に何ができるかばかりを考えて、「自分」が発想の出発点にいたと思います。これからは、「世界中の人の幸せ」を出発点に発想してゆきたいと思います。(T・О愛知)
  • 団体宿泊奉仕に参加しましたが、平安郷は四~五年ぶりに来ました。その静けさや綺麗さは全く変わってなく、いつも手が行き届いている場所でした。川流れの掃除と草取りでしたが、あっという間の時間でした。夕食も体に優しい調理でおいしかったです。お部屋や大浴場は初めての体験で、テレビのない夜は、いろんな話をしてコミュニケーションづくりが出来ました。これからの時期は桜が満開になり綺麗な平安郷を一般の方々に見てもらい、多くの人にこんな素晴らしい所があるんだと知ってもらいたいです。また、ゆっくりと家族や友人たちと一緒に来たいです。ありがとうございました。(M・M鳥取)
  • 今回、教会ぐるみの一泊奉仕に参加しました。天国的な二日間を過ごさせていただき、皆さんとどの場でも和合していける事の安心感、喜びを感じさせていただける事に感謝です。聖地はどこでも整備されており、とても気持ちの良い時間をいただきました。ただただ感謝の一言です。ありがとうござました。(K・W鳥取)
  • 平安郷はとても明るく楽しいご奉仕でした~。特に生け込みされてたお花が清楚で心が洗われました。平安郷で出会ったスタッフの皆様の笑顔&優しさにとても心が癒されました。又頂いたお食事が全て美味しくお腹一杯食べさせて頂きました!またご参拝したいです。本当にありがとうございました。(H・K広島)

コバちゃんのひとりごと

「太秦」はなぜ「うずまさ」と読むか
 
 春秋庵の東側の山の麓に古墳群があるのはごぞんじでしょうか。これは、一五〇〇年ほど前の秦氏のものと言われています。日本書紀や古事記でも秦氏のことが記されており、第十五代・応神天皇の時代に、秦の始皇帝の末裔が、新羅から渡来してきたものと記されています。明主様は『応神天皇は私の前世の一人で、右の因縁で最初麹町へ治療所を出したときは「応神堂」と名付けた』(昭和二十四年十二月二十日)と仰っておられます。その秦氏は、新羅より灌漑土木、養蚕や機織り、酒造など優れた技術を日本に持ち込み、山城の国(京都市)の西部を中心に開拓しました。この広沢池周辺や嵐山で有名な桂川周辺も秦氏が開拓整備し、その秦氏の力を頼って、西暦七九四年、桓武天皇は長岡京から平安京に遷都したとされています。
 ところで、平安郷の最寄り駅でもあり太秦映画村の名前でもある「太秦」の読み方「うずまさ」についてですが、太とは拠点の意味で、朝鮮半島から渡来した秦氏の拠点(=太)だったから太秦と記されたといわれます。その秦氏は朝廷への税として絹布を納めるため、この地に絹布を「うず高く」積み上げていたため、朝廷から「兎豆満佐(うずまさ)」の姓を与えられました。この「うずまさ」を「太秦」の文字に当てたというのが現在の通説ですが、異説として、秦氏は「大秦国(ローマ帝国)」から来た民族が中央アジアにあった「弓月国」を経由して、中国、朝鮮半島、そして日本に渡来したユダヤ系の民族であり、「ウズマサ」の発音は、ヘブライ語の「ウズ(栄光)・マシアッハ(救世主)」という意味があるとの説があります。ちなみに、この「秦氏はユダヤ人説」を唱える学者たちによると、「エルサレム」は「エル・シャーロム」( Jeru Salem)と発音し、「平和な都市」「平和な都」という意味になるそうです。

太秦広隆寺 弥勒菩薩像

 飛鳥時代、603年に秦河勝が聖徳太子より仏像を賜り、その仏像を本尊として建立しました。創建当時は「蜂岡寺」といい、「広隆寺」と呼ばれるようになったのは平安時代からです。広隆寺と言えば、昭和26年(1951年)に国宝彫刻第1号となった『弥勒菩薩半跏思惟像』です。冠をかぶっているようなので「宝冠弥勒」とも呼ばれています。わずかに笑みを浮かべた「アルカイックスマイル」に思わずキュンと・・・。
 弥勒菩薩と観世音菩薩は、お釈迦様から将来必ず悟りを開いて如来に昇格すると保証されている菩薩です。明主様は昭和28年4月11日に広隆寺を見学されました。皆様も平安郷来聖の折には、ぜひ参拝されてみてはいかがでしょうか。
広隆寺 京都市右京区太秦蜂岡町32(JR太秦駅より徒歩10分)